2021/09/07 14:09
珈琲豆専門店「ルブランコーヒー」は、店主の祖父が神戸で開業し、父が引き継いだ喫茶店が元になっています。ファミリーヒストリーをご覧ください。
初代:阿部忠太郎のヒストリー
私の祖父・阿部忠太郎は明治37年12月18日、徳島県で生まれました。自然に囲まれた徳島には当時農業以外の仕事はわずかしかありませんでした。また、忠太郎は次男であり家業を継ぐ将来は約束されていなかったため、彼は仕事を求めて兵庫県神戸市に移住します。第2次世界大戦が激化する前、妻・正子と共に三宮そごうの南で喫茶店「滝道」を開業しました。
当時の神戸にはまだ喫茶店の数は少なく、喫茶店「滝道」は大盛況。しかし、戦争が激化し、経営存続が難しいと判断した忠太郎は妻と子ども3人を連れて自身の故郷である徳島へ疎開することを決意します。
終戦後、家族を連れて徳島から再び神戸に移った忠太郎は、1948年神戸市兵庫区に喫茶「元滝道ホワイト」を開業し、再び喫茶店経営に精を出します。戦後の物資食糧不足の中、労働者や大衆庶民に重宝された「元滝道ホワイト」。朝5時から夜12時まで営業してもいつも満席だったそうです。
商才に溢れたビジネスマン
阿部忠太郎はビジネスセンスの嗅覚と行動力に長けていました。
テレビが発売された直後、まだ一般庶民には到底払える金額ではなかった高級品だった時代に誰よりも早くテレビを購入し、喫茶店に設置しました。当時プロレス全盛期で、店はテレビが見たい客で常に満席だったそうです。
また、カットしたスイカにかき氷を乗せた”氷スイカ”をメニューに加えると暑い夏に大ヒット。さらにミルクコーヒー(現代のカフェオレ)を”ミーコー”と称して流行らせたり、当時ではまだ珍しい”自家製アイスクリーム”を販売し飛ぶように売れました。「これは売れる!」と感じたものに対しての投資を惜しまなかったそうです。
激動の時代に様々なアイディアで商売をした忠太郎は、「元滝道ホワイト」に次いで神戸市中央区に2店舗目となる「大倉山ホワイト」とオープン。また、友人が立ち上げた組合に協力し、「新開地ホワイト」「松原ホワイト」など約50店舗までホワイトを増やすことに力を注ぎました。
親戚想いのお人好しな男
商才に優れた忠太郎でしたが、困った人を放っておけない人情深い男でもありました。
戦後、職を無くした親族や配偶者に先立たれて途方に暮れる身内に対し、喫茶店を用意し、店を経営させるというやり方で彼らに救いの手を差し伸べました。喫茶店開業の資金を負担し、経営ノウハウを伝授し、独り立ちするサポートをしたのです。カリスマ経営者と言っても過言ではありませんが、驚くことに彼は独り立ちさせた後はそれ以上の見返りを求めなかったそうです。そのため、現在で言うところのフランチャイズ化の仕組みまでは作りませんでした。残念ながら私が生まれた頃にはもう他界していた祖父。彼の武勇伝を聞くと、孫ながら尊敬します。
先代:阿部嘉弘のヒストリー
1942年生まれの父・嘉弘は祖父と180度違う人種かもしれません。
祖父がカリスマ経営者であったとするならば、父は大学教授肌タイプの勤勉家。祖父が作った喫茶店「大倉山ホワイト」を激動の時代に守り抜いた二代目と言えるでしょう。
祖父が高齢になり、大学を卒業した父が「大倉山ホワイト」を継ぐことになります。結婚した嘉弘は妻・美恵子と共に喫茶店経営に注力します。経営が祖父から父に変わるタイミングで、屋号を「ホワイト」から「ル・ブラン」へ変更。客の入れ替わりが激しい「大衆喫茶」からゆっくりくつろげる「喫茶店」へ変わっていくのです。
明るい時代のル・ブラン
時代は昭和の高度経済成長期に突入。ル・ブラン(LE BLANC)はフランス語で「白」という意味です。祖父から譲り受けたホワイトの名前を残しつつ、当時フランス語を勉強していた父のこだわりが感じ取れます。「ホワイト」から「ル・ブラン」に変わるタイミングで、店をリニューアルオープンし、メニューも変更。珈琲ドリンクメインの喫茶店から、トーストモーニングやハンバーグランチなど、食事メニューを増やしました。朝は出勤前のビジネスマンがトーストモーニングを、昼休みにはランチを、お昼すぎには文化ホール帰りのマダムがケーキセットを。その結果、店は大繁盛。朝早くから晩までバタバタ父と母が働いていた姿が先日のように思い出せます。
不景気に突入するル・ブラン
時代は昭和から平成に入り、バブル景気が崩壊。不景気が長引く中、さらに追い打ちをかけるように1995年に阪神・淡路大震災が発生します。喫茶店は半壊。店の食器の半分以上が割れ、水の確保も難しい状態が数週間続きました。やっとの思いで再開した喫茶店でしたが、客足は震災前に比べると激減。当時小学生だった私でさえ「お店大丈夫かな?」と心配したことを思い出します。
店をたたむ同業者や仕入れのコーヒー豆の値上げが続きました。また、世の中ではスターバックスやタリーズなどフランチャイズの店舗が町中にでき、若い世代が喫茶店に入る文化がいつしか消えかけてしまった時代です。しかしル・ブランは地元の常連さんに親しまれ、なんとか店を続けることができました。
ル・ブランの閉店
不景気を何とか乗り越え、1981年にリニューアルオープンしたル・ブラン。激動の時代、喫茶店経営に力を注いだ父はもう70歳を過ぎ、地元の人に惜しまれながらも2016年に閉店しました。
喫茶店を一度も継いでほしいと言わなかった父。自分のやりたいように生きなさいと導いてくれた父。そんな父が閉店を決めたとたん、今まで特に感じてこなかった喫茶店愛が芽生えてきました。違う形で何とか続けることは出来ないか、祖父が築き、父が守ってきたコーヒー屋さんを私も引き継ぐことは出来ないだろうか。
この想いが、現在の珈琲豆専門店「ルブランコーヒー」を生み出すことになったのです。